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あいすまん

あいすまん

現代詩への提言-沖縄から-

現代詩への提言

 沖縄から

               宮城隆尋

包丁と糸ノコを上手く使って
全てバラバラにしていきます

最初に手足の指を切り落とし
腕を足を細かく分けて

死後硬直のせいで硬くなった
小さな性器を噛み千切ります
(中略)
初めて手にした心臓は
小さくそして気持ちが悪く
白い部屋には似つかわしくない
やはり汚いものでした

最後に残った首の部分は
鼻と耳から削ぎ落として

頭蓋骨は金鎚で砕き
ぐちゃぐちゃと潰していきます
桃寿「バラバラ」(抜粋「禁忌の接吻」より)

 幼いわが子を殺害し、死体をバラバラに切断するという設定のこの詩は、二〇〇三年十一月に大阪府で、両親の殺害を交際中の大学生と共謀し、大学生が実際に親を殺してしまった事件の当事者が書いたもの。ハンドルネームは桃寿(ももじゅ)。当時十六歳の女子高校生。ホームページ「禁忌の接吻」内の「狂気の唄」に多数の詩篇が発表されていた。ビジュアル系ロックバンドの歌詞にみられる猟奇的表現に影響された表現が、ネット上などですでに氾濫しており、リストカットが問題化し始めた頃で、ニュース番組などで大々的に伝えられた。陰惨な内容をはじめ、文語調であること、血にまみれた本人の手首などの写真つきであること、著作権を本人が放棄していることなどが問題にされた。しかしこんな詩も書いている。〈頭の良い貴方/温かい貴方/一途な貴方/大好きな貴方//此れから先//繋いだ手が/離れそうになったらば//嘘迄吐いて/後味悪く/別れるよりは//二人で死んでしまいましょう//一緒に生きる相手では無く/貴方は//一緒に死ねる相手で在るから//愛しています/とても〉(桃寿「破滅への恋路」より抜粋)
 報道、特にワイドショー関連では事件との関連で表現の傾向を問題視したり、文語文法が間違っているとかを取りざたし、彼女を特別な存在として崇めたり叩いたりする姿が見られた。大きく扱われれば扱われるほど、テレビ画面の中の大人と十代の少年たちが抱える現実との隔たりを感じざるを得なかった。桃寿氏の作品やホームページの表現傾向は、十代で文科系の自己表現をする者の中で多数派といえるほど、いたって一般的だからだ。それはひとまず置いておくとして、現代詩にかかわる人間にとって大事なのは、これを現代詩の範疇に迎え入れることだと思う。こういった表現をどう受け止めるかを考えるとき、彼女が交際中の男性と両親の殺害と共謀したことは重要ではなく、この擬似的で自己を捕らえあぐねている猟奇的表現がこの世代のある種の層のもっともリアルな表現傾向であることを認めることだと思うのだ。詩人は新聞記者とは違う。閉塞感漂う社会の大状況と照らして教育界や地域、社会を啓発し、提言することだけが詩人の役目ではない。ましてこういった表現が若い世代の間で氾濫していることを嘆くのは簡単で、非生産的だ。現代詩の今後を考えるにあたって重要なのは何かと考えるとき、モラルの範疇を逸脱しても、さまざまな表現を可能性のひとつとして取り込んでいくことが必要になると思う。敷居を下げ、混沌とした状況を作り出すことが、その分野自体に深みと広がりを持たせることにつながると思うのだ。また、こういった表現はほとんど十代限定ではあるが、ある程度の潮流を形成していると思う。そういったものに鈍感であり続けるのはジャンルそのものにとって危険とはいえないか。
 取り込んでいく方法はいくつかあると思う。あまりに他ジャンルになじまないため、小説でファンタジーの分野に限定した文庫や文学賞があるように、読者を意識し、評価基準を分け、ひとつのジャンルとして扱うことが必要だろう。雑誌編集者がスポットを当てても面白いと思うし、投稿欄や文学賞でも、ジャンルを分けるか、適した評価基準を持った人が選考に当たるようにすること。ネット上でも現代詩の範疇にいる人たちとの接点がないことが多いように見受けられるので、参加者や作品の傾向について多様性を意識したポータルサイトを作るなど。
音楽だけでなく、サブカルチャーとの接点を多く持つことが必要だと思う。漫画やアニメにも可能性はある。一昔前に大流行し社会現象とまでいわれたアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」。アニメ界でいまや存在しなかったことのように扱われている感も強いが、一時期はテレビシリーズや映画の世界観に影響された少年らの詩的な表現が、ネット上や漫画同人誌などで氾濫した。そういった少年はアニメを通して内省的になり、詩という表現形態を選んだのだが、結局現代詩というジャンルに出会うことができたかはわからない。
サブカルを許容すると質の低い作品も多く現れると思うが、表現の優劣に限らず、十代、二十代が心のうちに抱える混沌としたエネルギーに大差はないと思うのであり、時代に合わせて門戸を広げ、既存の芸術に限らずエンターテイメントを意識したジャンル横断的なアプローチが必要になると考える。
 詩のボクシングには若い参加者も多い。いまや全国に波及し、さまざまな人材を発掘している。しかし全国大会を見るとなぜかじめじめしているのは、限られた審査員のみが判定するということで、選ばれる選手の傾向が似てくるのではないかと思うが、評価基準は置いておくとして、詩のボクシングのもつ可能性は大きいと思う。津々浦々で似たような朗読会が開かれていると思うが、審査方法を聴衆全員の多数決にしたり、団体戦やリーグ戦をしたり、ジャンルや得意分野ごとに個人タイトルを設けたりしても面白いと思う。日本朗読ボクシング協会が主催するものだけでなく、詩の同人やサークルなどが独自に開催していけばいいと思う。
相田みつをや326(ミツル)に影響されて路上でイラストやちょっとした言葉を販売する人たちも多くいる。何の面白みもなく、とても詩とはいえない陳腐な言葉に見えても、人を元気づける力がある。見ず知らずの人が書いた言葉を、わざわざお金を出して買う人がいるというのはそういうことだろう。だからそれらも詩の一ジャンルと考えるべきだと思う。
 思いついたことを羅列してきたが、これらは現代詩の商業誌や同人誌において触れられることはあっても好意的なものではなく、詩とは関係ないものとして扱われてきた(最近は「ユリイカ」などで違った傾向が見られるが)。しかしこれらの持つパワーは、現代詩に新たな力を注ぐ可能性のあるものだと思う。

 沖縄の状況にも触れたい。わたしの周辺にもこんな詩を書く若者がいた。〈もうどのくらい迷ったのだろう/目指す場所なんて忘れてしまった/「もう楽になりたいの」/迷い疲れた私は刀をあてがい/黒が流れ出る様にと貫いた/でも黒は赤黒くなっただけで、拭ってもとれてはくれなくて/糸もますます絡みつくばかり〉(伊集ゆうき「黒」抜粋 詩集『xx17B0816IU』より)
 高校生の作品だが、先に引用した作品と似ている。沖縄の詩界には学生運動を経験した世代以後に世代間の断絶がある。現在、新聞や雑誌、同人誌などに詩を継続的に発表している県内詩人を見ると、五十代以上が大半を占め、二十代が数人。三十代、四十代は皆無に等しい。その間に何が起きたか。システム的な面でいうと新聞における投稿欄の断絶や郷土文芸雑誌の休刊などがあったが、本質的には、土着の詩文化は次世代に引き継がれていないと考える。なぜか。それは先に引用した詩のような、数年前から現れた十代、二十代の書いた詩を見れば分かる。テレビや雑誌などで中央からダイレクトで伝わってきた文化に育てられた世代だ。だから県外の人間と作品の傾向が似てくる。
 かつての沖縄の詩といえば、代表的なものに山之口貘がいる。〈島の土を踏んだとたんに/ガンジューイとあいさつしたところ/はいおかげさまで元気ですとか言って/島の人は日本語で来たのだ/郷愁はいささか戸惑いしてしまって/ウチナーグチマディン ムル/イクサニ サッタルバスイと言うと/島の人は苦笑したのだが/沖縄語は上手ですねと来たのだ〉(山之口貘「弾を浴びた島」)。最後まで「島の人」が標準語を話し続けるところに沖縄が戦争で受けた傷の深さが現れており、またそれが戦中郷土を離れていた貘の、郷土との再会と同時に感じた寂しさ、距離感を表している。沖縄と自己を対象化して現実を鋭く切り取った作品だ。日常の一場面を切り取ることで、そのときその共同体や自分が抱えている問題がにじみ出てくるのだと思う。
しかし、現代の沖縄で詩を書くことの意味を考えると、どの形をとってもリアリティーは出ないと思う。近代に貘のような表現があり、戦後、詩人たちが状況に即した作品を発表していた時代があった。しかしそれは時代の要請とも言うべきものだった。幼馴染の女子中学生や隣の家の生後間もない女児が強姦されて殺され、犯人の米兵が軍法会議で無罪になったような時代ではない。現在もアメジョと呼ばれるアメリカ文化に興味を持つ女子中高生がナンパされて薬物を打たれ輪姦され、泣き寝入りするなんてことは日常茶飯事なようだが、事件の本質が違う。何よりすぐ隣でおきている事件が、日常から乖離してしまっているのが問題だ。それも中央の文化に塗りつぶされた日常を送るうちに、普段目にすることのめったにない郷土の問題に興味が持てず、知識も持てないことが原因だと思う。
 沖縄の場合は世代間断絶の溝が深い。両者の橋渡しをすること以上に、不平等の構造が根本的に変わらない中でそれに気づかない今の世代が、自己に即した表現を発見していくことが困難であると思う。ある掲示板で、リストカットをやめることができないという女子高校生が、「自分の血の暖かさを感じる瞬間だけ、生きているんだと安心できる」と書いていた。現実感を感じることや、擬似的な感覚から抜け出すことの容易でない現代の若い世代。沖縄も他県も同じようにいるが、不平等の構造が隠蔽されていくというこの島にしかない現実も覆いかぶさっていることに気づかない世代が増えていく。題材が豊富に埋もれ、詩人(に限らないが)が育つ土壌が良くも悪くも肥えた沖縄で、その土壌に接することなく、若い世代は温室内で本土初のトロピカルでリゾートなイメージに侵されていく。県内の現代詩界には、他県にないいびつな現状があり、その次代を担う世代には大きな課題が残されている。県内詩壇で活動する詩人や研究者などの文化人はこのことに自覚的に表現していかなければならないと思う。

 まとまりのない文章で、誰に対しての提言なのかあいまいな物言いになってしまった感があるが、現代詩の周縁にいるわたしが今言えること、もっとも言いたいことを書いた。これを現代詩への提言としたい。


『詩界』第245号(2004年9月30日)日本詩人クラブ  より転載


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